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2014年11月18日火曜日

鈴木亮介さんの発表「志村正彦-軽音部・賢治・青春-」[フォーラムをふりかえって 6]

 
 続いて「WebロックマガジンBEEAST」副編集長の鈴木亮介さんにお話をしていただきました。鈴木さんは直接フジファブリックの取材をなさったことはないとのことでしたが、最近の高校生のバンド活動への志村さんの影響を始めとして、多様な観点からお話ししてくださいました。

 高校生、10代のみなさんのバンド活動について取材していると、今は軽音部が大変隆盛だと感じます。中には100人を超えるような部もある。昔は軽音部というと不良の溜まり場といったイメージが強かったと思いますが、今はそんなことはありません。
 顧問の先生も名ばかりではなく実際に技術を教えられる方がたくさんいますし、機材や練習場所やバンドをやっているといろいろお金がかかりますが、学校の部活ならそれが無料で使えます。そんなわけで楽器をやるという間口はとても広くなっていて、一年生の時はひたすら基礎練習、目標は大会で優勝することというまるで体育会系のような状況も生まれています。
 
 そんな中でフジファブリックは人気のバンドの一つです。でもみんながキャアキャア騒いでいる感じではなくて、ミーハーより本格志向、軽音部の中では割と地味で、技術があるそんなバンドがコピーをしていることが多いように見えます。
 さて、バンドをやりたい若者にとって、かつてないほど間口が広がって、恵まれた状況なわけですが、だからといって、よい音楽が生まれ、ロックスターが出てくるかというと、逆なわけです。志村さんが軽音部で、部活の仲間と練習しているっていうのはちょっと想像できないですよね。物があったり教える先生がいたり気軽に始められたりという豊かな環境があればいいというわけでもなくて、制限された中でいろいろなハードルがあったりするほうがむしろ素晴らしい音楽が生まれてくるような気がします。


 ここからはほんとうにファンとしての思いになってしまいますけれども、志村さんの音楽に対する原動力とはいったいなんだろうと思います。今日展示を見ていて、宮沢賢治とリンクするような気がしました。宮沢賢治も37歳の若さで亡くなって、賢治の方がもっと不遇な状況で、生前に一冊しか本が出せなくて死んでから評価されたですけれども。賢治も一つのセンテンス、ワンフレーズ、一つのことばを何度も何度も消したり書き直したりした跡が原稿に残っているんですね。そのへん志村さんの詩の作り方と通ずるとことがあると思いました。
 志村さんがこの時代にここまで徹底して一つ一つのことばにストイックに向かい合ったというのは稀有なことかなと思います。結局その原動力とは何かはよくわからないんですが、それは簡単にわかるようなことではなくて、何か内側から湧き上がってくるもの、天から与えられた才能なのかなと思ったりもしました。

 中国に五行説というのがありまして、「青春」というのはみなさんよくご存じだと思いますが、実は人生を4つの季節になぞらえたもので、自我が確立する16歳くらいから30歳までを「青春」、30~40歳を「朱夏」、40~50歳を「白秋」、50歳以降を「玄冬」と言います。 五行の五番目は土に還る、つまり死を意味します。
 そんなライフステージを考えると、志村さんは「青春」の間を生き抜いて残念ながら人生を終えてしまったわけですが、もし今生きて次のステージに入っていたらどんな歌を作っていただろうと思うと、想像するだけで楽しみな気がします。

 人が死んだあとに何が残るかというと、亡くなって数十年は関係した人達の記憶に残るかもしれませんが、徐々に忘れられていって、そのあとに残るのはことばだと思います。ことばというのは、もう少し広く解釈して絵画とか、彫刻とか、写真とか、音楽とかも含めていいかもしれません。松尾芭蕉は人は儚く、永遠と思われる山河のような自然も姿を変える。残るものはことばであると言っています。
 そういう意味で、今回志村さんのことば、詩の世界に着目したこのイベントはとても良い場だったと思います。                                                     

 鈴木さんの御発表は、高校生の軽音部の活動への言及、志村さんと宮沢賢治の詩の作り方の類似性の指摘、中国の五行説による考察など、ジャーナリストらしい目配りのきいた、とても充実したものでした。

2014年11月3日月曜日

前嶋愛子さんの発表「志村正彦 表現の特徴と世界観」[フォーラムをふりかえって 5]

 倉辺さんに続いて、前嶋愛子さんの発表がありました。
 前嶋さんは志村さんの詩の「表現の特徴と世界観」をテーマに丁寧な読解をもとに発表して下さいました。記録映像から文字に起こしたものを以下掲載します。


 志村君の詩は、日本語、英語にしてもカタカナ表記です。その中で志村君は語感をとても大切にしていると感じられます。例えば擬音語、擬態語などオノマトペの多用ということがあります。藤井フミヤさんに提供した「どんどこ男」はタイトルからしてそうですし、有名な「銀河」の「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」などたくさんあります。語感という点ではもう一つにはリフレインが多い、単にサビの部分を繰り返すだけではなく、印象的なフレーズが多いと思います。

 また歌詞の中にどことなく昭和の風景が見えてくるというのも特徴だと思います。富士吉田を訪れたことがある方ならおわかりだと思いますが、まさに歌詞の風景がそこにあります。私も志村君と同世代ということもあって、路地裏とか、駄菓子屋とか、スポーツだったらサッカーより野球といった昭和の風景が投影されているところに懐かしさを感じますし、生まれ育った場所は違いますが、共感できます。

 ここからは私が今回お伝えしたいことに入るのですが、使われている人称を見てみると、一人称の場合は「僕」、一部「俺」という場合もありますが、ほとんど「僕」で、二人称は「君」または「あなた」となります。基本的に「僕と君」もしくは「あなた」の物語という中で語られる世界です。志村君はロックスターなので、女の子にとっては憧れ、恋の対象になってしまいがちです。だから、聴いたり読んだりしていて、「君」とか「あなた」つまり女の子との関係性が気になります。
 では、志村作品の女の子たちはどう描かれているかというと、歌詞と言うよりも映像、特にスミスさんが撮った初期のミュージックビデオの影響で制服の美少女、女子高生、そんなイメージが強いのではないでしょうか。

 志村君自身の妄想癖というと語弊があるかもしれませんが、妄想が爆発する歌詞が結構あります。例えば、初期の作品「花屋の娘」は「暇つぶしに」花屋の娘に恋をするというところから始まって全編妄想でできたような詩ですが、では、妄想で何をしているかというと公園に行って、かくれんぼするというように随分かわいらしい。妄想といってもそんな類のものです。

 また、パーツに対するこだわりのようなものも見受けられます。例えば、髪の毛に対して、「赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた」(「午前3時」)や「君が髪型を変えたことが気がかりです」(「記念写真」)などは、髪のせいで孤独になったり気がかりであったりするんですが、それを相手に聞けずに悶々としている様子がうかがえます。また、口、声にもこだわりがあって、これは志村君がヴォーカリストだということも関係しているのかもしれませんが、「唇のソレ」の口元のほくろや「マリアとアマゾネス」の声などパーツに言及しているものが多いです。

 こうしてみていくと、「君」を女の子と想定していたのが、そもそもそれでいいのかと気になってきます。だいたい「愛している」とか「好きだよ」ということばは一切出てきません。唯一「水飴と綿飴」の中に「love you」と出てくるんですが、すぐあとに「嘘だよ」と切り返していて、ひねってあるというか、単純なラブソングの枠組みでは志村作品の「僕」と「君」との関係性は読めないようになっています。

 そうした表現上の特徴から一歩踏み込んで「君」と「僕」との物語を考えてみると、特に初期の曲の歌詞には、すでに去ってしまった相手への思いを綴ったり、回想したりしているものが多いと思います。その表現がとても巧みで、「儚く色褪せてゆく」花に過去の君を投影したり(「花」)、実際思い返してみると「感傷的にはなりきれない」自分に気付いたり(「赤黄色の金木犀」)というふうに表現されています。過ぎ去ったものへの思いで、立ち止まる僕というものが描かれているところが非常に印象的です。
 「陽炎」の歌詞の中では「君」ではなくて「あの人」という三人称に変わっています。一見相手との距離が遠くなっているように見えますが、通り雨が降ってやむまでのほんの短い時間の中で「あの人」のことを思ってしまう、そういう深い関わりのある相手であることを私達に想像させてくれます。

 「走る」「逃げる」「追いかける」などのことばが多いことはさきほどの発表にもありましたが、「二人で」とか「あなたと」「逃げる」というような表現があります。ここでは「銀河」と「サボテンレコード」を例に挙げましたが、「あなたと」逃げるとか「あなたを」連れて行くとかというのは、何から逃げるかわからないんですけれども、とても強い気持ちを表していると思うんですね。「愛している」というようなことばではなくて行動で表すというか。

 今挙げた二曲は初期の曲ですが、中期以降の曲で同じようなシチュエーションを探してみると、一緒に逃げるのではなく、自分が相手のところへ行くというふうに少し変わってきています。「銀河」や「サボテンレコード」は「向かおう」「連れて行こう」と言いますが、いずれも未然形で、ほんとうに二人で逃げたかどうかはわかりません。
 それが「星降る夜になったら」では「迎えに行く」と言いながら「迎えに行くとするよ」となって、まだ実際に行ったかはわかりませんが、「Suger!」 になると「君に届けに行くから待ってて」と相手に投げかけていて、意思表示をして自ら動こうとしている「僕」の姿が想像できます。このあたりは時間を追っての変化だと思います。                                                                             

 今日の展示パネルにも、「二人」から「僕ら」への人称の変化が起こっていて、それが「Teenager」以降だという考察がありまして、その通りだと思ったんです。過去への追慕だったり内省的だったりというのが、一般的な志村君の詩の解釈なのかもしれませんが、近年の作品には動こうとする「君」と「僕」、「僕ら」という関係が描かれていて、それがどうなっていくのか見たかったなあと思います。

 志村さんの詩はいろいろな読み方、聴き方ができ、解釈の自由度があります。そこに書き手の器量の大きさを感じさせます。私はそんな志村君の歌が大好きでこれからも聴き続けたいと思います。みなさまにもそうあってほしいと願って発表させていただきました。


 前嶋さんのご発表は、作品の具体的な言葉に即して、しかも、様々な作品を通して、志村正彦の詩的世界を丁寧に分かりやすく分析したものでした。特に、人称代名詞から読みとれる関係のあり方について深く考察されていて、とても興味深いものでした。